老眼初心者による本や映画の話

あまり読まない本とあまり見ない映画の話

映画『ゴジラ』(1954)

ゴジラ(昭和29年度作品)【60周年記念版】 [Blu-ray]

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『ゴジラ』第一作(1954、東宝、本多猪四郎監督)をCATVでやっていたので、録画して見直しました。出演は、宝田明、河内桃子、平田昭彦、志村喬、堺左千夫ら。
 海底に生息していた古代生物が水爆実験の影響により地上に出現し、東京を焼き尽くします。
 作品で地上を守るのは「防衛隊」でしたが、警察予備隊が保安隊を経て自衛隊に編成されたのは、映画が公開された昭和29年。朝鮮戦争は休戦しましたが、米ソのにらみ合いが続き、世界情勢は安定しません。日本には第二次大戦の記憶が色濃く残っています。映画では(引用不正確ですが)、電車に乗っていた女性が「せっかく長崎の原爆を運良く逃れたのに」とぼやいたり、銀座でゴジラに襲来された母親が子供を抱いて「もうすぐおとうちゃんのところに行けるよ」と叫んだりします。ゴジラが通り過ぎた東京をみた当時の観客は東京大空襲を想起したでしょう。病院はベッドが足りず、野戦病院のようです。
『ゴジラ』にあって『シン・ゴジラ』にない大きなものは庶民の切実な悲哀です。後者のゴジラは、一見、福島第一原発のメタファーとして出現するものの、「人間の技術が生み出した怪獣」という意味づけは稀薄で、原発に近い町から避難せざるをえなかった人たちの悲しみはまったく反映されません。
『ゴジラ』では大量破壊兵器を造ってしまう科学者の葛藤が描かれ、命に代えて怪獣を殺そうとします。『シン・ゴジラ』は知恵と勇敢な行動力で(スケールは大きいけど)害獣を駆除します。ある意味、政府と科学と自衛隊の広報になるような映画ですが、一方、莫大な時間と人材と費用をかけても収束できない原発事故のほうがゴジラより怖いという事実が際立ち、私はゲンナリしました。
 東京を徹底的に焼尽するという点では『シン・ゴジラ』も引けをとりません。しかし現像のよくないモノクロ映画のほうに迫力を感じるのはなぜでしょうか。人々が焼かれる映像がはさまれることで、絶望感が生じるからか、あるいはモノクロのほうが想像力が働くのか……(青空の下のゴジラってなんか変だよね)。
 ともかく、あらためて『ゴジラ』は良いパニック映画だと感じました。意味不明なところもあります(たとえば山根博士はなぜゴジラが光を嫌うと言ったのか?)が、それを考慮しても悪くない作品です。
      ☆
 以下、今回気づいたこと。
 志村喬演じる山根博士が大戸島の坂道を駈け上がるシーン、思ったよりも機敏で、一瞬、『七人の侍』の勘兵衞とダブります。それもそのはず、『七人の侍』も同じ昭和29年公開なのでした。
 志村は当時49歳。山根博士は老人というイメージでしたが、妙齢の娘がいることから実年齢はほぼ同じなのかもしれません。ちなみに、志村が定年(当時は55歳かな)間際の役人を演じた『生きる』はその2年前でした。むかしの人の年はわからん。
 ちなみにキネ旬ベストテンを見ると、1位と2位を木下恵介監督の松竹映画『二十四の瞳』『女の園』が占め、『七人の侍』は3位。『ゴジラ』は無得点です。興行収入も『七人の侍』が3位で『ゴジラ』は8位。トップは『君の名は・第三部』でした。
 評価も興行収入も、松竹が東宝を抑えていたんですね。

映画『喝采』

 妻が録画していた『喝采』(1954米、The Country Girl)を観ました。
 息子を事故で失ったことで挫折し、酒に溺れる舞台俳優フランク(ビング・クロスビー)。彼を復帰させたいクック(ウイリアム・ホールデン)は、フランクの妻ジョージー(グレイス・ケリー)と衝突しながら公演の準備をすすめる、という物語。
 原題からしても彼女が主人公なんですね。屈折した夫の面倒を見るグレイス・ケリーが非常に難しい役を演じています。ただのスター映画ではないな、と感心して観ていました。ただ、いつも反目していたクックとジョージーが突然チューしてからは、緊張感がなくなりましたけどね。「女として見られたことがうれしい」なんて、ちょっと陳腐じゃないかなあ。ずっと地味だったグレイス・ケリーが、最後、ばっちりメイクしていて、ハッとさせられます。
 映画は「まあまあ」でしたが、グレイス・ケリーは大好きです。

喝采 [DVD]

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映画『この世界の片隅に』

こうの史代の原作も読んでいますが、あえて読み返さず、映画を観ました。1週間くらい前の話です。

広島市の江波(えば)で育ち、呉市に嫁いだ女性すずの物語です。絵が得意で夢見がちで、現実と夢の境が曖昧な少女でした。

原作コミックの良さをそのまま残しつつ、街並みや動植物を丁寧に描くアニメでした。戦時下の風俗が丹念に再現された、大袈裟にいえぱ民俗学的な要素もあります。広島県出身者から見ると、たいてい映画やテレビの広島弁はむちゃくちゃなんですが、この映画の声優陣に関してはほとんど違和感がなかった。そのことからも、いかに丁寧につくられたかがわかります。
呉は軍港でありました。いまでも造船の街です。
そんな町に嫁いだ主人公すずは、おおむね好人物だけがいるコミュニティで、のんびり見える日々の生活を送ります。夢見がちで明るい性格の彼女を通してみると、戦争という不条理までふくめての、日常なのです。ところが、そこに予期せぬ不条理が襲いかかり、彼女にヒリヒリとした現実を突きつけるのです。
主人公の声を演じたのん(能年玲奈)は作品をよく理解していました。素人くさささえ魅力になっていて、彼女の映画といってもいいかもしれません。彼女の独立問題によりテレビで映画のプロモーションができなかったという噂も聞きましたが、いまどき映画なんて口コミでヒットするんでしょうから問題ありません。私は基本的にテレビを観ませんしね(じつは『あまちゃん』も知らないのです)。
最近、第二次大戦の知識がない若い子がいると聞きます。私は8月6日がなんの日か知らない若者の会話を聞いたことがあります。そういう人が見たら呉を攻撃するのがどこの国なのかわからないくらい政治的な背景は省略されます。もしも「銃後の暮らしも案外たのしかったんだな」とか「反戦のメッセージがなかったな」なんて思うなら、決定的に鑑賞力がないのでしょうが。
前述のとおり、ぼんやりした性格の主人公のフィルターを通すことで、軍国主義的風潮も捨象されています。だからこそなんでもない日常を破壊する戦争の不条理さが際立つともいえます。

原作を読んでストーリーは知っていましたから、いきなり映画だけ観た人よりショックは少ないはずです。それでも気持ちが重くなり、1日ぼけーっとしてしまい、とりあえず映画館から帰って1時間ほど寝ました。^^
私が小学生のときに死んだ母方の祖父は、戦時中、呉の造船所で働いていました。晩年は長男とともに自宅で漁船を作っていました。あの映画の世界にいたんだろうか、なんて考えています。

         ☆

原爆をあつかった映画は『はだしのゲン』も『黒い雨』ももっと衝撃的でした。『この世界の片隅に』は、その点、かなりマイルドです。
でも、『この世界の片隅に』も戦時下の一面なのです。原爆投下から70年以上経って、やっとこういう切り口で原爆を語れるようになったとも言えますし、そのためヒットしているとも言えます。今村昌平『黒い雨』の公開初日、私は当時の習慣で、最前列の真ん中に座りましたが、客は私だけでした。怖かった。
個人的には、遊廓跡に興味があり、中国地方最大規模の呉の遊廓にスポットを当てたことも評価します。あれも遊廓の一面でしょうけど。

映画『シン・ゴジラ』(ネタバレ?)

 映画を観ても本を読んでもブログを更新していなかった。
 これを期に少しアップするようにします。

        ☆

 私はこどものころゴジラは好きでした。広島に住んでいたから実物を見たことはなかったけど、東京タワーや大阪城が壊されることにワクワクしました。
 しかし小学生向け雑誌で、過去にゴジラが「シェー」をしたと知り、夢から醒めました。自分だって子供のくせに、ゴジラは子供だましだとバカにしてしまったのです。
 今は、テレビでやっていれば、第一作『ゴジラ』などは観ます。子供向け娯楽映画ではない傑作です。モノクロだからいいのかもしれません。夜の暗がりにゴジラの目と、放射能の光線だけが光るシーンは美しい。

 さて、そんな私が映画『シン・ゴジラ』を見ました。
 SNSを見ると、友人や友人の友人が、2度見た3度見た、とありますから、それなりに期待したのでした。ラジオ等で「ネタバレにならない程度に」という前置きで聞いていた情報は、福島原発事故のあたふたした対応を描いたものだとか、日米安保体制を皮肉ったものだとかいうもの。「ゴジラを《駆除》するために原爆を投下するといったアメリカに、日本は追い詰められる」という話も聞いていました。
 それらを聞いて、勝手にストーリーを妄想していたんですね。
 最初に結論を書けば「期待ほどではなかった。まあまあくらいかなあ」というのが率直な印象です。

  (以下ネタバレふくむかも。注意。)

 自分で勝手に膨らませた期待を、映画は越えてくれなかったのでした。映像はそれなりによかったと思います。しかし20年前ならともかく、いまどきCG観て驚くようなこともないし……。私の場合、巷間漏れ聞く「セリフが多い」「人間ドラマがない」という、よく聞く批判はしません。そんな映画もあっていいからです。
『シン・ゴジラ』の前半は、自衛隊出動にいたるまでの法解釈や、日本がアメリカに隷属していることを描いた点で新しいのでしょう。おもしろかった。ただ、海外の人が見たら確かにつまらんかもね。
 しかし、現実を見据えた前半のパロディは、その後、「こうだったらいいのにね」という理想を描くファンタジーになります。
 だから左の人たちは前半を見て反権力の映画だと評し、右な人たちは後半を見て日本礼賛の映画だというかもしれません(映画のなかで、日本はほとんどアメポチですけど、いまの自称保守はアメリカ従属を是とするからいいんでしょう)。
 私はもしかして徹底的に日本が破壊されるのを期待していたのかもなあ。『日本沈没』並みに。

 日本に襲来したのが宇宙人ではなくゴジラである意味はなんでしょう。 
 ゴジラは可視化された放射能です。つまり福島原発を想起させます。
 前述のとおり、前半は福島の原発による政府の対応をカリカチュアライズしています。やたらと「想定外」を発する大臣がいました。
 誰かが指摘していますが、終戦の決断から玉音放送にいたるシリアス劇にコメディの要素を加えた、岡本喜八『日本のいちばん長い日』にも通じているといえましょう。マスコミや国民の視点をほとんど省略している点も共通しています。もっとも『日本のいちばん長い日』の場合、あの日、大本営発表しか報じないマスコミや、敗戦の噂さえ耳にしてなかった庶民を描く必要性は低かったといえますけど。
 2度目の上陸で東京は壊滅的な被害を負います。上陸した地点は異なりますが、結局最初と同じようなコースをたどる理由がわかりません。馴染みのある場所が破壊されている点は、私にとっては面白かった。
 ただ、人間を脅かす存在であるゴジラを生みだしたのは誰なのか? なぜ日本を襲撃したか? 国家とは何か?……といったことまで考えさせる深い映画ではなかった。前述のとおり、後半は、進化した害獣を知恵と勇気で駆除するお話になるからです。
 制御不能な放射能=ゴジラに対し、知恵と勇気で立ち向かう勇敢な日本人。縦割り行政とか責任をとりたくない政治家たちとか外交能力のない大臣たちといった、合うはずのない歯車がカチカチはまって機能し始めます。

 映画を観て、政府と日本が世界の科学者と力を合わせれば、あるいは日米が合同で力をあわせれば、どんな艱難も解決できるという前向きなメッセージを受け取る人は幸せなのかもしれません。日本人は万能ですって。
 でも正直、私は、滅入ってしまった。いまの日本は地球を汚染し続けるメルトスルーという現実的な問題を抱えているのです。誰かはアンダーコントロールとウソついたけどね。福島の原発事故に比べれば、ゴジラは与しやすいのだと再認識してしまった。偉い人たち、どうか叡智をもって原発を制御してください。

 一般論として、創作物は(作者のテーマなどと無関係に)ロールシャッハテストみたいなものだから、個々の感想は自由です。右も左も武器オタクも庵野オタクもゴジラファンも自分なりの解釈と発見をしてたのしめばいい。私はがっかりした大団円で、カタルシスを得たひともたくさんいる。
 つまり、あれです。テレビで「日本人ってこんなにすごいんです」という番組や本がたくさんありますよね。あれは何かのプロパガンダですか? 私は自画自賛が気持ち悪いんですが、みんなが好きで視聴率が高いからどんどん増えるのでしょう。『シン・ゴジラ』は日本礼賛映画、つまり国策映画に見えて警戒してしまいます。そういや、「アンダーコントロール」と言った人も、なにかの会合で『シン・ゴジラ』に言及し、自衛官募集のポスターにもゴジラが登場していたそうですね。

 以下は、雑感。
◎この映画、皇居の話題は避けていました。
◎上記のとおり、ゴジラは夜がよく似合う。真っ昼間、電池切れして突っ立っているゴジラはどんなもんじゃろ?
◎最初出てきたとき、ゴジラは姿形が違います。初登場が第一か第二形態で、完成した姿は第四形態でしたっけ。ゴジラの幼少期はミニラだろ〜、と私は心のなかで叫んでいましたわ。
◎『忠臣蔵』と同時に進行するスピンオフ(?)が『四谷怪談』です。同じように、日本でゴジラ退治のため知恵と勇気をふるう『シン・ゴジラ』と、日本のゴジラを◎◎で撃退するべく必死に任務を遂行する『博士の異常な愛情』が同時進行していたら……と妄想したら、こりゃすごい映画だな。

本『「靖国神社」問答』

30年くらい前の話。
友人と喫茶店で靖国問題について雑談していると、総理大臣による靖国神社公式参拝に賛成するやつがいました。リベラルな考えの持ち主でしたが、「日本のために命を落とした英霊に、首相が頭を下げるのはいいことだと思う。靖国参拝に反対する人の気持ちがわからない」と力説するのです。ずっと聞いたあと、「憲法違反でも、そう思うか」と言うと、彼は「ん〜」と考え込んでしまいました。
立憲主義が揺らいでいるかもしれないと思ったのはこのときが初めてです。純粋に善意の気持ちからかもしれないけど、一般の国民が憲法をないがしろにするようになっていたのです。解釈改憲などというイカサマがまかりとおるのもむべなるかな。

      ◎

山中恒『「靖国神社」問答』(小学館文庫)を読みました。
政治や外交としての靖国問題に関しては以前もよく読みました。神社としての靖国に関しては、小松和彦『神になった人びと』(知恵の森文庫)で読みました。戦争のあと、祟りを怖れて、相手も一緒に祀ってきた日本ですが、靖国は戦勝国側だけの戦没者を祀る歴史的には型破りな神社であることや、戦没者はみな合わさって一つの柱になっているため、分祀できないことなどを学びました。靖国神社は明治2年の建立です。
山中恒が書いた『「靖国神社」問答』は、いろんな角度から総合的に靖国神社を学べる1冊でした。日本の近現代史の一側面が理解できるので中高生に読んでほしい。
明治以降、現人神=天皇と神道が日本の中心に位置づけられます。戦前・戦中の子供は大日本帝国や天皇に敵対する相手と戦うことは神の意思にかなった正義であると教え込まれ、殉国の士を靖国の神にすることで誰も戦争に反対できなくなるようにしたのだ、と著者は書きます。つまり靖国神社は国家的な戦争の装置なのです。
八紘一宇の精神でアジアに勢力を伸ばそうとした、明治以降の日本の歴史を丁寧に振り返りながら、靖国神社の果たした役割を俯瞰しています。白井聡の解説も良かった。

      ◎

今年の正月、神社が憲法改正の書名を集めていたと報じられ、ドキッとしました。いまの保守は、社会を戦前に戻したいと言われます。戦後、政教分離を徹底され格下げされた神社も、憲法改正をして国家神道に戻りたいんでしょう。私は靖国は以前から敬遠していますが、神社一般とも距離を置くことにしました。どうしても神様が欲しくなったら、拾ってきた石を飾り、神様として崇拝することにします。

「靖国神社」問答 (小学館文庫)

「靖国神社」問答 (小学館文庫)

 
神になった人びと (知恵の森文庫)

神になった人びと (知恵の森文庫)

 

 

本『被差別の食卓』

今年はこのブログをきちんと更新していきたいと思っています。

      ◎

「お好み焼きは広島県民のソウルフードだ」みたいな言い方をよく聞きますが、もともとソウルフードとはアメリカのアフリカ系アメリカ人の食文化なのです。ソウルミュージックと同じですね。フライドチキンやキャットフィッシュ(なまず)が黒人たちのソウルフードでした。

上原善広『被差別の食卓』(新潮新書)を読みました。著者は、差別されてきた人たちの食事をさぐるために世界を旅します。本来の意味でのソウルフードを訪ねるのです。アメリカとブラジルの黒人奴隷に端を発する料理、ブルガリアとイラクのロマ(いわゆるジプシー)の食事、ネパールの不可触民の食事……。最終章は、著者が生まれ育ったむら(=日本の被差別部落)の食事が取り上げられます。彼らはみな、差別する側が食べないものを揚げたり干したりして工夫し、独自の食文化をつちかってきたのです。

日本でも、食肉・皮革に従事する人が差別された歴史があります。同様に、ネパールでは、牛の解体をおこなう人々は穢れていると差別されています。《この"浄・穢"の考え方は中国、朝鮮を経由して日本にも伝播し、被差別部落を形成する思想の元になったと考えられている》というのは初めて知りました。

著者は何らかの主張を声高に叫ぶわけではありません。非常にフラットな視点で、ただ単にスケッチしたような書き方がとても良かった。この著者の本は、引き続き読んでいきます。

被差別の食卓 (新潮新書)

被差別の食卓 (新潮新書)

 

本『永続敗戦論』

政治のことなど考えないで生きていたいのですが、そうもいかない。みなさんご存じのように、現政権が押し通そうとしている安保法制に関する議論は、まったく意見が嚙み合わずコミュニケーション不全に陥っています。詭弁とはぐらかしに満ちていて体系というものができていない。これは「言葉を守るかどうか」あるいは「正しい手続きを踏むかどうか」の戦いなのです。

高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)は、朝日新聞に載った論壇評をまとめた一冊。連載をまとめたものだからテーマが散らばっていている印象は否めませんが、冷静でバランスのとれた本でした。非論理的で、非インタラクティブで、饒舌だけど意味のふくまれない言葉で騙されないためには、私たちが冷静で論理的でいるしかありません。

その本に触れられていたか記憶しませんが、続いて白井聡『永続敗戦論』を読みました。著者は1977年生まれの社会学者らしい。

むかしから指摘されていることですが、日本は「敗戦記念日」を「終戦記念日」と言っています。戦争できるようになる法案なのに「平和法案」といい、武器を輸出できる原則を「防衛装備移転三原則」と呼ぶのと同じく、なんらかの意図があるわけです。

白井氏はその言い換えをこんなふうに説明します。

日本はポツダム宣言を受諾し、サンフランシスコ講和条約を締結することで敗戦を受け容れたはずの日本の権力中枢は、じつは敗戦を否定している。アジア諸国に対しては、たんに戦争が終わっただけかのように振る舞う。日本の歴史認識は昔から変わりがなく、ポツダム宣言も新憲法も内心否定している。しかし事実日本は敗戦したのであるから、日本はそうした態度を見せかけるためにもアメリカに従属せざるをえないのである。《(略)敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は「永続敗戦」と呼ぶ》(48p.)

本書はこの考えを基本にして、領土問題、アメリカやアジアとの関係、天皇問題、戦争責任、靖國問題、さらに日本が何をすべきか……などを論じています。非常に鋭い指摘です。2013年3月に刊行された本ですが、2年以上経って歴史修正主義の擡頭がいちじるしくなり、著者の主張がますます具体的になってきました。

先日、山本太郎議員が、すこしまえに志位和夫議員が、それぞれ国会において日本の対米追従について質問しました。安保法制がアメリカの要請によるものではないか、との指摘を、首相や防衛相は完全に否定できなかった、と私には見えました。

私は改憲やむなし派です。けれど、いまの解釈改憲に与することはできません。互いに理解できる言葉と論理とで話しあう社会をつくるために、無力感と戦いながら頭をフル回転させなければならない。もう少し勉強します。

永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04)

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ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

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映画『瘋癲老人日記』

いやはや、このブログの存在自体忘れていました。本は読んでます。映画はあんまり観てませんが……。

本日、新宿の角川シネマにて『瘋癲老人日記』を見て参りました。初見です。「若尾文子 映画祭 青春」という企画で上映される作品のひとつです。世界に誇る、大官能・マゾヒズム芸術作品です。どうぞ原作もお読みください。

『瘋癲老人日記』1962年大映
 監督/木村恵吾 原作/谷崎潤一郎
 出演/山村聰、東山千栄子、川崎敬三、若尾文子、村田知栄子、丹阿弥谷津子

じつは私、文子サマのファンなんです。まさに「しとやかな獣」──気品のある役から途轍もない悪女までこなせる、名女優です。それぞれの作品につきましては、また語る機会もありましょう。

さて、『瘋癲老人日記』です。原作では、喜寿を迎えた卯木督助が息子の妻の脚に魅入られ、シャワーを浴びている彼女の脚に頰ずりしたり踏まれたりして興奮を覚えるというプレーを愉しみます。それは血圧の上昇を招く、命を賭けた危険な遊びでもありました。嫁・颯子はそれをどう思っているのか、督助におねだりして高価な猫目石を買ってもらったりしているのです。死期が近づいた督助は、自分の墓石にあるものを刻もうと、颯子に懇願します……と、これらが漢字片仮名まじりの日記として語られていきます。最後、看護婦の手記が添えられ、少々、事実が混乱するのです。そのあたり、ミステリー風な小説を多く書いている谷崎の真骨頂ともいえます。

これを映画にするのは難しいでしょう。日記が客観性を欠くから成立するお話なのです。映像にしてしまえば、虚実入り交じった妄想部分も事実として語られます。

コミカルにすることで、おそらく別の味わいを狙ったものと思われます。最初から、谷崎の『台所太平記』を参考にしたようなドタバタです。シャワーを浴びている颯子の脚にすり寄るシーンなんかも、観客の笑いを誘っていました。しかし、ずっとコメディタッチであるところに、最後の墓石のシークエンスに移ったとたん、狂気を映したいのか官能的にしたいのかよくわからない微妙な雰囲気になってしまい、全体がちぐはぐな印象になってしまうのです。期待してはいなかったけど、最後は残念でした。(脚本にひとこと申すなら、主人公はとくに「脚」に拘泥しなきゃならなかった。谷崎のフットフェティシズムは有名ですが、映画では、脚も首も舐めたい、キスしたいと言うから、脚への執着が際立ちません)

若尾文子サマは、決してスタイルはよくないんですが、よくまあ、素肌をさらしていらっしゃいました。山村聡はすかしすぎてて督助を演じられないんじゃないかと思っていたんですが、私の先入観でありました。その十二分な瘋癲ぶりに感心しました。

誤解されると困るのですが、原作は、谷崎先生晩年の大傑作です。大学生のとき論文を書かされたため詳しく何度も読みました。原作の偉大さについて語りたいところですが、まあ、それも機会があれば、いつかまた。

瘋癲老人日記 [DVD]

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鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)

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本『9回裏無死1塁でバントはするな』

9回裏無死1塁でバントはするな(祥伝社新書234)

9回裏無死1塁でバントはするな(祥伝社新書234)

 

あんまりカープが弱いので(申し遅れましたが、私、カープファンなのです)本棚にあった本を抜き出して読みました。野球の統計学・セイバーメトリクスについて書かれた入門書で、軽い読み物となっています。

セイバーメトリクスは、アメリカの野球オタクであるビル・ジェームズがはじめたゲームの統計・解析です。それまで経験論的にできあがっていた作戦のセオリーや、選手の評価基準に疑問を呈しました。日本でいちはやくその分野の論文を書いたのは鳩山由紀夫だそうです。

野球経験のない人たちが組み立てた数式をMLBの現場で採用したのは、オークランド・アスレチックスのGMビリー・ビーンでした。屈指の貧乏球団であったアスレチックスは、セイバーメトリクスでは評価されるのに一般的に成績が悪いとされる選手を安く獲得し、徹底的に得点効率の良い作戦を採用し、2002年にはMLBの最高勝率をあげました。現在はすこし戦術が変わっているそうですが、当時評価した選手は、たとえば打率が低くても選球眼がよくて出塁率が高い選手。採用した作戦のひとつは、犠牲バントでわざわざアウトをひとつ献上しないをこと、でした。

そういえば、意外に思われるかもしれませんが、松井秀喜とイチローの出塁率はほぼ同じ、時期によっては松井のほうが上でした。2010年、松井がアスレチックスに移籍したときの年俸は425万ドル、その年、マリナーズのイチローは1800万ドル……ビリー・ビーンが松井をお買い得と思ったのもわかります。

詳しくはマイケル・ルイス『マネー・ボール』をお読みください。ブラッド・ピット主演の映画も良かった。

        ★

さてさて、『9回裏無死1塁でバントはするな』です。

入門書と書いたとおり、セイバーメトリクスによる選手の評価基準や戦術について、雑学的に書かれています。

タイトルの9回裏無死1塁で犠牲バントをするのはおかしい、という根拠となっているのは次のとおりです。

「後攻チームが1点差で負けている状況での勝利確率」
 =9回無死1塁で32.1%、9回1死2塁で28.4%。

「同点の状況での後攻チームの勝利確率」
 =9回無死1塁で71.9%、9回1死2塁で69.6%。

わざわざ犠牲バントをしてまで9回1死2塁の状況をつくっても、かえって勝利確率は下がる、という理屈のようです。バントがいつも成功するわけじゃありませんし。個人的には、次の打者のその日の調子や投手との相性などもあると考えますし、そのまま延長戦も続投させたい投手が送りバントをするという状況もあるように思います。

とにかく常識を疑ってみよう、という本です。

著者によれば、「唯一、犠牲バントを成功させることによって勝利確率を上げられる状況がある。それは、同点で、9回裏ノーアウトランナー2塁という状況である」とあります。この本は電車のなかで読了しまして、帰宅すると、カープが同点9回表に、無死2塁から送りバントをし、オリックスのバッテリーエラーで勝ち越し点をあげました。9回表のことは書いてなかったけど、このバントの選択は正しかったのかな……などと考えたことでありました。

マネー・ボール〔完全版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

マネー・ボール〔完全版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

本『月と蛇と縄文人』

月と蛇と縄文人

月と蛇と縄文人

 

こないだ、なにかの拍子に、ふと考えました。

岡本太郎の功績として、縄文文化や子供の絵を「芸術として発見」したことが挙げられます。しかし、そのことにより縄文人の精神性を子供並みと勘違いしている人がいるんじゃないか? たとえば、縄文人のつくった土偶は、女性の裸が多いけど、彼らは呪術的な意味をこめて裸をつくったのです。つまり彼らは抽象的な思考ができるのです。縄文人を舐めちゃいかんよ。

縄文人の文化を考えるには精神分析的な読み方が有効なはず。そんな本はたくさんあるんだろうと思ってAmazonで検索してみました。ネリー・ナウマン『生の緒』がまずヒットします。評判は知っているけど、5,000円だしな……。お、大島直行『月と蛇と縄文人』(寿郎社)という本があるじゃないか。と、ためしに購入したのです。「月」に関する本を買ってしまう癖もあります。

思った通り、ナウマンらの研究を受け継ぎ、精神分析学的に縄文文化にアプローチする内容でした。

著者によると、そういった精神分析学的な解読をした考古学者は少ないんだそうです。正統な考古学者は「発達史観」で縄文時代をとらえていて、現代人より遙かに劣ったと考えられる縄文人の心象に思いを馳せることなどなかったんだとか。

これには少々驚きました。

じつは、フロイトだのユングだの「元型」だの「男根」だの「子宮」だの……文学研究をやっていた大学時代にウンザリするほど見聞きました。テリー・イーグルトン『文学とは何か』だって精神分析批評に一章が割いているんです。考古学の対象となる時代は、科学などが未発達なぶん精神の文化だといえます。だから縄文文化だってすでに精神分析学の手法で語り尽くされていたと想像していたのです。

ユングのいう《元型》が、時空を越えて縄文人にも共有されていると著者は考えます。そのうえで縄文土器の縄模様や、土偶、竪穴式住居、ストーンサークルなどの意味を読み解くのです。たとえば、縄は、からみあう蛇の交尾をあらわしたものだと主張。蛇は、男根を連想させ、さらに脱皮や冬眠などの「再生」のイメージがあります。そこで縄文人は土器に縄模様をほどこし、多産や生まれ変わりを願った──。

ふむふむ。

精子は月から授かると世界的に考えられていて、だから土偶は斜め上を眺め、月からの水を溜めるような形状をしている。

ふむふむ。

貝塚は……鮫の歯は……

ふむふむ。

「汎性欲論」は精神分析を批判するときのキーワードですが、この本も「汎性欲論」的かな、と思わないわけじゃありません。もうちょっと説明があったらいいのにと感じたところもあります。それでも充分刺激的な一冊でした。

緑色が再生のカラーであるといった思わぬ発想や、本州の縄文人は世界的に見ると虫歯が多かったなどという意外な事実をも得られたのでありました。

本『こんなテレビに誰がした』と愛川欽也

こんなテレビに誰がした

こんなテレビに誰がした

 

愛川欽也の訃報を聞いてまっさきに想起したのは、「テレビについて話す会」(以下「話す会」)のことでした。1996年、愛川氏の呼びかけで、 視聴率至上主義に疑問を感じるテレビ業界の関係者172人が賛同したそうです。TBSのビデオ問題と前後していたこともあり、大きな話題になりました。

愛川氏が甲高い声で機関銃のように(自己顕示欲旺盛気味な)言葉を繰り出すのが私は苦手でしたが、あのときの勇気に心から敬意を払っています。

ところが、ネットで眺めるかぎり「テレビについて話す会」の情報があまりないのです。訃報では毎日新聞のネット記事には触れてありました。あとで話題にする 『こんなテレビに誰がした』が毎日新聞社刊だったからでしょうか。視聴率批判はタブーでしょうから、ワイドショーでも言及しなかったはずです。

4月17日付の東京新聞夕刊1面には、横尾和博のこんな話が載っていました。

「硬派の人」貫いた
二十年来の親交のあった横尾和博さんの話  愛川欽也さんはテレビの視聴率競争を批判し、キー局から干されても自ら政治や社会の問題を取り上げる「パックインジャーナル」などの番組を立ち上げた。硬派の人だが、庶民に寄り添う話芸にすぐれていた。三月二十三日に話したのが最後になったが、福島原発事故で放出された放射性物質の量を調べてほしいと言い、事故を気にかけていた。

視聴率によってテレビ局のスポンサー料が決まるようになったため、数字で評価される風潮が拡がりました。内容が良くたって視聴率が悪ければ「悪い番組」で、下品なことしても高視聴率を取れば「いい番組」……。広告収入に頼るテレビ局は視聴率アップをはかって収入を増やしたいのです。

ニュースだって「大人の事情」が反映されます。自由に原発批判ができないのはスポンサーに対する配慮です(そのうえ最近は政府の意向も汲み取らなきゃいけないようです)。テレビのニュースを見続けるなら、個々の情報リテラシー能力を高めて番組の裏を読むしかないのでしょう。

以前読んだ『電通の正体』(週刊金曜日取材班、金曜日刊)に「話す会」のことが書かれていました。人気者だった愛川氏がそれを境に干されたというので興味を持ち、古本屋で見かけた『こんなテレビに誰がした』を購入したんですが、そのままにしていました。今回、やっと読んだ次第です。

本書には、愛川欽也ほか、小中陽太郎、ばばこういち、前田武彦、阿川佐和子、見城美枝子らの賛同者が、おもに対談形式で発言しています。TBSビデオ問題にも触れています。テレビの劣化を嘆く意見はそれ以前からもありましたので、当時どれだけセンセーショナルだったか記憶していません。少なくとも今から見れば驚くような問題提起には思えない。しかし、出演者などテレビ業界内部から不満が湧いた、という点は衝撃的だったと思われます。

放送ジャーナリスト・ばばこういちが、インターネットやケーブルテレビの発達を予見し、相対的にテレビが弱まると危惧しているのはなかなか面白かった。

現在、アメリカで流行っているドラマは、テレビ局ではなくネット会社が制作していると言います。コマーシャルが挟まり、広告主に気をつかって自主規制するテレビドラマより、1話ごとに金を払って魅力的なネットドラマをストリーミング視聴するほうが好まれているらしい(→ウォールストリートジャーナル『米TV視聴時間減少、ストリーミングは人気上昇=ニールセン調査』)。日本にもその波が押し寄せ、テレビ局の力が相対的に落ちていく可能性は大いにあります。

やや話題が逸れました。

愛川氏の Wikipedia を見ると、96年以降、東京12ch以外では単発的なドラマやバラエティが中心になっていきます。なぜそんな事態になったのか、さらに、CSやイン ターネット上でニュース番組をやっていたのはなぜか……それらは「話す会」を抜きにして語れないはずです。死ぬ直前まで活動し、テレビのタブーから自由であろうとした愛川氏は見事でした。

電通の正体―マスコミ最大のタブー

電通の正体―マスコミ最大のタブー

 
 

本『怪異考/化物の進化 寺田寅彦随筆選集』中公文庫

怪異考/化物の進化 - 寺田寅彦随筆選集 (中公文庫)

怪異考/化物の進化 - 寺田寅彦随筆選集 (中公文庫)

 

寺田寅彦(1878年=明治11年〜1935年=昭和10年)は物理学者であり随筆家でありました。夏目漱石の門弟です。「天災は忘れたころにやってくる」は寺田の言葉といわれます。理化学研究所に所属しましたが、先般の幻細胞の件で、理研を説明する文章に寺田寅彦が出てくるたび、私は歯がゆく思ったものでした。

本日読んだのは『怪異考/化物の進化 寺田寅彦随筆選集』千葉俊二・細川光洋編(中公文庫)です。

寺田寅彦がどれだけえらいかは、「化物の進化」の次の文章でよくわかります。

自然界の不思議さは原始人類にとっても、二十世紀の科学者にとっても同じくらいに不思議である。その不思議を昔われらの先祖が化物へ帰納したのを、今の科学 者は分子原子電子へ持って行くだけの事である。昔の人でもおそらく当時彼等の身辺の石器土器を「見る」と同じ意味で化物を見たものはあるまい。それと同じ ようにいかなる科学者でもまだ天秤や試験官を「見る」ように原子や電子を見た人はないのである。それで、もし昔の化物が実在でないとすれば今の電子や原子 も実在ではなくて結局一種の化物であると云われる。(略)

寺田寅彦は「怪異考」で、古くからの怪しい言い伝えを 科学的に解き明かそうと試みています。だからといって化物のたぐいを否定しているわけではなく、むしろ敬意を払っているのです。「科学的/非科学的」の二項対立を批判しています。多くの人が非科学的だとして幽霊や妖怪を否定し駆逐します。地震の原因が大ナマズであれマントルであれ地震は地震だ、と巨きな視点でものごとを考えられる人はそうそうありますまい。

     

世の中の不思議には際限がない、と寺田寅彦は何度か主張しています。

要するにあらゆる化物をいかなる程度まで科学で説明しても化物は決して退散も消滅もしない。ただ化物の顔貌がだんだんにちがったものとなって現れるだけである。人間が進化するにつれて、化物も進化しない訳には行かない。(略)──「化物の進化」より

理化学が進めば世の中に不思議はなくなるであろうと云う人がある。しかし科学が進めばかえって今まで知られなかった新しい不思議なものも出てくるのである。現在物理学者の問題となっている宇宙線などもその一例である。──「宇宙線」より

寺田が没して丸八十年。その間、科学も進歩しましたが、いっこうに不思議なものは減りません。

「春六題」のなかに、同じような表現でこんなことを寺田は書きます。生物学者と物理学者、化学者が不休の努力を続け、物質と生命の距離を縮めようとしているからいずれ生命を物質として語れる日がくるかもしれない、と前置きし、こう続けるのです。

(略)もしそれが成効して生命の物理的説明が付いたらどうであろう。
 科学というものを知らずに毛嫌いする人はそういう日を呪うかもしれない。しかし生命の不思議が本当に味わわれるのはその日からであろう。生命の物理的説明とは生命を抹殺する事ではなくて、逆に「物質の中に瀰漫する生命」を発見する事でなければならない。

DNAの解析などにより「生命の物理的説明」がつきそうな時代になってきました。「物質の中に瀰漫する生命」を発見し、味わう時代が到来したということなのでしょう。これは人工知能の話にも通じます。

さらに。

いまの日本のことを言い当てたということであれば、科学が進化すれば化物も進化するという上記の予言にも触れなければなりません。いまの日本に出現した化物は放射能です(編纂者のひとり・千葉氏も、解説で放射能なる化物について書いています)。科学が進化したのに応じて化物も格段に進化したのでしょうか。村に出没する狐狸のたぐいとはレヴェルがちがいます。じつに頭が痛い化物です。