老眼初心者による本や映画の話

あまり読まない本とあまり見ない映画の話

内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』にみるニセ保守

 ひとこと、この本に触れたいのです。
 
 人命救助のため土俵にあがった女性に対して「土俵から降りてください」といった例の事件に腹が立ち、本棚から探り当てました。
 私は相撲ファンでした。相撲の歴史、好きな力士の応援、八百長の噂をふくめて全部好きだったのです。神話の時代の話から最近のスキャンダルまで網羅的に読んでいたので、今でも相撲関連の書籍がごっそり並んでいます。相撲ファンを辞めたのは、確実に存在していた互助会的八百長を報じた週刊誌を日本相撲協会が訴え、勝訴が下ったときです。野球賭博から派生して組織的八百長が発覚したのは、さらに数年後でした。

         ☆

 内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』は2006年刊行。おそらく当時読んだのでしょう。東北大学の修士論文をベースに書かれたそうです。私の知らないこともよく調べていて、その点には感心します。土俵とは結界であり、不浄とされる女性は伝統的に立ち入ることができない。結論から書けば、内館牧子は保守派として、その伝統を守りたいとおっしゃるのです。

 太古の人間が「女性の月経を畏怖し敬いつつ穢れとも見た」というのは世界共通の認識です。日本では、仏教伝来により五障三従や女人不成仏が影響して女性は不浄だという考えが定着したなどと言われます。
 大相撲は、それを理由にいまだに女人禁制なのです。
 たしかに相撲に神事という側面があったかもしれませんが、かつては異形の人たちが演じる見世物・興行でもありました。プロレス興行と同じようなものだったんでしょう。団体はたくさん存在したでしょうし、女子プロレスみたいな女相撲の興行もありました。女相撲は戦後まで続いていたのです。いまもちびっこ相撲で女の子が取り組みをしますし、スポーツ競技としての女子相撲世界選手権があります。女子相撲のアイドル野崎舞夏星選手は立命館大学で男と稽古してたよ。
 ところが、内館氏は相撲の一側面を切り捨てて無視するのです。《なお、ここでは「女相撲」は取りあげない。「女相撲」については多くの研究者がおり、論文や文献も多いが、私は女子だけで取る相撲は別のジャンルであると考える。》(196p.)
 庶民文化としての相撲・歴史としての相撲は、大相撲だけでなく女相撲もちびっこ相撲もすべて論じなきゃならないのに、
なぜ大相撲しか考えないのか……?
 
 明治以降の大相撲は、国技を自称することを思いつき、権威づくりのために国家神道と結びつき、さまざまな伝統やしきたりを後づけでこしらえました。
 内館氏もちゃんと書いています。

  実は「相撲は国技」「伝統の国技大相撲」という言葉にだまされてしまうが、相撲が「国技」になったのは一九〇九年(明治四十二年)のことである。
 追って詳述するが、大相撲における女人禁制は、一六九九年の土俵成立から、国技になった一九〇九年あたりに固まったようだと私は考えている。そして職業相撲集団にとって、男尊女卑がまかり通っていた時代は問題ない。しかし、明治に入ってそれが通用しにくくなると、聖性や宗教性など故実の後づけをして、「伝統を創る」という方向にもっていったように思う。
 また、この間に限らず、相撲はいつでもその時代の権力者と密接に結びついていた。天皇、貴族、武将、軍人など権力と手を携えながら、伝統を創った。すると創った伝統が古来からのものであるかのように周囲が勝手に思ってしまう。このあたりのテクニックには驚かされるし、あきれるほど鮮やかでもある。(59p.)

 土俵ができた年は1699年とわかっているんだっけ?……はともかく。
 聖性や宗教性など故実の後づけをされた「創られた伝統」だと冒頭に書いておきながら、内館氏はその伝統をありがたがる。そして、繰り返し、男女平等や男女共同参画を持ち出して「土俵に女をあげろ」と主張する人たちを攻撃します。
 は?
 私も相撲の女人禁制を疑問視していますが、「男女平等」「男女共同参画」とは関係ありません。大相撲なんて、あとづけの伝統だらけですし、いくつもルールを変更している。四本柱を取っ払ったり、文字通り立ち合って始めた相撲の立ちあいを四つんばいに変更したり、カラーテレビ向けにまわしをカラーにしたり……。女人禁制だけ固執するのはナゼ? と感じるのです。「女は不浄」だなんて考える人、もういないでしょ……いや、少しはいるのか。
 人命救助のため土俵に上がった女性までを外に出そうとした大相撲、もはや宗教です。なんとか教の信者が輸血を拒んだ話を思い出します。教義が人命を上回る。
宗教法人にしたほうがよい。
 
 もうひとつ。
 ある意味、これが一番重要なのですが。
 保守を自称する内館氏と、男女平等や男女共同参画を持ち出して「土俵に女をあげろ」と主張する人たちは理解しあえるのでしょうか?
 内館氏は《いかなる努力をしてもお互いに理解しあえない》(260p.)と書きます。はて、保守とは人と対話できない人でしたかな。
 保守の父エドマンド・バーグは、「人は間違いやすいものであるから、時間をかけて対話し、漸進的に社会を改良していく」と規定しているはずです。
 2006年に書かれた内館氏の《いかなる努力をしてもお互いに理解しあえない》は、安倍晋三という戦後最低の総理大臣が言い放った「こんな人たち」や「対話より圧力」発言、小池百合子による「排除」発言同様、社会を分断し、気に入らない者を切り捨てる考え方です。
 保守を自称する輩が明治あたりの伝統をありがたがって復古主義を謳い、異を唱える人間とは話しあうことなく排除する。たかが相撲の話から見えてくるのは、ニセ保守が跋扈するひどい世の中です。

女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)

女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)

 

本『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』

 新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を読みました。カバーの箔がなかなかおもしろい。単なる黒の箔じゃなかった。
 論点が多いうえ本全体の構成がよろしくないので短くまとまりませんが、「シンギュラリティは来ない。Aiは神にならないし、人間の仕事は全部奪わない。東大合格ロボットを作るにあたって厄介だったのは、AIの読解力である。MARCHレベルには達したが、限界だろう。われわれのチームは同時に中高生に学力テストを行なった。すると(国語以外の)教科書の記述すら理解できない子供が相当数いる。AIの不得意な分野を伸ばさなければ、彼らは職を奪われるかもしれない。もちろん社会にも大きな変革をもたらす」云々、かな。
 シンギュラリティ(技術的特異点)って今ではいろんな意味で使われます。この人はもちろんカーツワイルの提唱したGNRのうちロボティクス(人工知能の革命)について書いています。
 著者は、文節で区切ることとか「同義文判定」とか「具体例判定」とか書かれているから、私が考えるような正攻法的アプローチでダメだった、ということなんでしょう。
 それでも私は、他の誰かがパラダイムシフトを起こすと予想しているんです。もちろん大学受験レベルの論理的な文章の読解に限ってのこと。AIに詩や小説(や映画や絵画)は観賞できないと思うし、そもそも感想を求めてもしかたがない(私がある本を読んでどんな感想を抱くかは予測できるでしょう)。シンギュラリティが起きるか起きないのは、さらにその先です。
 著者のチームによる子供の読解力テストは以前報じられましたが、たまげたもんです。「富士山は日本一高い山です。高尾山は富士山より高いですか」が回答できないレベル。中高生のお子さんがいるうちはここだけやらせてみたらいい。178ページあたりの珍回答が、国会での与党や朝生での議論と同じだから恐ろしくなってしまった。AIに職業を奪われる前に、百田尚樹や三浦瑠麗に洗脳されてしまうわ。
 著者は、子供の読解力低下がなにに起因するのかわからなかったと書きます。読書量との相関関係などもなく、原因が見いだせなかったとか。
 私は社会全体の思考パターンが必ず子供に影響を与えると思うのですよ。たとえば、いつからか「頭がいい人」は、じっくりものを考える人ではなく、たけしやさんまみたいに反射的に面白いことを言う人を指すようになった。松本人志って頭いいよね、と親や友達が言えば、ぼんやりテレビ視て入ってくる松本人志の政治的発言も頭いい人の発言と認識される。
 社会の風潮や周囲の大人の思考能力が、子供の読む能力と無関係だと思わないんです。やはり読解力や情報リテラシーの引き上げは必要か?──政治家はこの程度でちゅうどいいと考えていたりしてね。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 

本『明治維新という過ち』

 安倍晋三という男は自分を保守と自称するのですが、ハテ、私の知っている保守ではないのですよ。保守という言葉をご存じなければ、エドマンド・バーグで検索してみてくださいませ。
 安倍先生は、いまある社会を明治に戻せなんて不思議なことを考えているらしい。戦後こつこつ積み上げてきたものを一挙に毀そうとします。これは革新ではありませんか。生産性革命、人づくり革命など、やたらと「革命」と言うのであります(安倍先生の発音は「しぇえしゃんせい、かくめぃ」「ひとちゅくり、かくめぃ」。ちなみに北朝鮮は「ちたちょうせん」)が、とても保守派の言葉とは思えません。エドマンド・バーグは、フランス革命を批判して保守という概念を説明したのですから。
 ふと思ったのです。
 日本は明治におかしくなったのではないか。幕末にテロを繰り返し、ついにクーデターで幕府を転覆させた薩長がつくりあげた新政府は、日本の伝統をことごとく破壊(たとえば廃仏毀釈)し、自分たちに都合良く国民を教化し、戦争を繰り返しました。明治維新といわれるあのとき日本が捩じ曲がり、いまに至っているのではないか……。私はあんまり幕末って好きじゃなかった。喧嘩上等、太く短く、みたいな狼藉者が跋扈し暗殺を繰り返した殺伐とした時代です。しかし、現代日本を識るためには避けて通れそうにない。
 そう思いつき、薩長史観とか、長州史観とかで検索すると、いくつか面白そうな本がヒットしました。そのひとつが、原田伊織『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(講談社文庫)です。もうすこし落ち着いたカバーデザインが望ましい。
 著者は、いまの教科書は官軍による偏った正史だと断言します。私は小学5年生のときに手塚治虫『火の鳥 ヤマト編』で、「歴史は勝者が都合良く書いたものだ」という衝撃の事実を知りますが、当時読んでいた社会の教科書まで疑うことをしなかった。
 さらに原田氏は、薩長が手を組んで、どんなふうにテロを起こしていったか、戊辰戦争で東北にどんな非道を働いたか、攘夷を唱えていたくせに開国し、天皇を利用して新政府を開いたか、を解説していきます。
 著者はあとがきで「今、私たちは長州・薩摩政権の書いた歴史を物差しとして時間軸を引いている。そもそもこの物差しが狂っていることに、いい加減に気づくべきであろう」と書いています。まったく同感です。
 
 以下、蛇足。
 明治以降、賊軍扱いされた東北は沖縄と並んで差別されてきた。インフラがあとまわしにされ、減反政策により余った労働力を高度経済成長期の大都市に集団就職させられ、原発を押しつけられ……。核燃料の再処理施設がある六ヶ所村は、むかし会津が改封された斗南藩のあった場所です。
 本書によれば、昭和61年に、長州の萩市が会津若松市に友好都市になりましょうと申し入れたところ、「まだ120年しか経ってないので」ときっぱり拒絶したそうです。震災を機に和解のムードは生まれているらしいけど、その間なんと150年。
 戦後から今日まではその半分か。韓国が「日本を許す」とは言わんよ、そりゃ。
 日本を「改革」しようとするアメリカ隷属の長州政権と訣別し、本当の意味での保守政権を待望します。福島や沖縄にいい政治家はおらんかね。

本『菊と刀』

 げげっ。まったく更新していない。今年はってもう2月だが、すこしは書こう。
       ★
 ルース・ベネディクト『菊と刀』(講談社学術文庫)を再読しました。何年ぶりでしょうか。原著 The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture は1946年に刊行され、1948年に長谷川松治によって邦訳されています。私が読んだ講談社学術文庫も長谷川訳ですが、角田安正訳の光文社古典新訳文庫も手許にあります。新訳はかなり易しい印象。
 恩とか忠義とか人情とかを論じる点には違和感を覚えるところもあるんですが、じつは日本に来たこともないという彼女の論文の嚆矢は、日本人が世界一の階層社会のなかに生きていて、自分も、日本という国家も「あるべき場所」に身を置こうとしている、という指摘です。
 八紘一宇を標榜した先の戦争でも、日本の大義名分はそうでした。
《日本は階層的秩序(ハイアラキー)を樹立するために闘わなければならない。この秩序の指導者は──それはむろん日本である。なんとなれば、日本は上から下まで真に階層的に組織されている唯一の国であり、したがって、おのおのがその「所」を得ることの必要を最もよく理解しているからである》(35ページ)
 日本はアジアでは覇者だと考え、ほかのアジアを支配しなければならない、と考えました。それを八紘一宇というのです。
       ★
 日本人は男性中心の階層社会に組み込まれていて、彼女が指摘した階層に今もって束縛されています。肩書き・年齢・所属するコミニュティの位置を考慮しながら、自分の「あるべき場所」を探り当てつつ生きているのです。たとえば、なにかのパーティで、大企業の部長と中小企業の社長と銀行の営業課長が鉢合った場合、誰が誰にビールを注ぐべきか、互いに判断できるということです。
 彼らの社会的な序列の上には政治家とか経団連とかのトップが居座っています。男たちは上司に対して反旗を翻さないのと同じく政治家の文句を言わない。今もむかしも「お上のいうこと」には逆らわないのです。むしろ、せっせと忖度する。そんな国の民草に、主権者であるという自覚が生まれるわけはありません。
 デモに参加するといってテレビのインタビューに答える日本人はたいてい年寄りか主婦です。それはつまり、彼らが階層社会の三角型のやや周縁に存在し、トップを批判しても自身に反撥が少ないからでしょう。もし会社員がテレビのインタビューに応え、安倍政権に反対を唱えたら、会社から叱られる可能性は大いにあります。裁量労働制というインチキ法案が成立すると、サラリーマンは「定額働かせプラン」の苦役を強いられるかもしれないのに、国会の前に会社員が大挙してデモをするなんて奇跡は起きないでしょう。
 国同士に関して言えば、とくに現政権はアメリカの言いなりのくせに、対アジアでは優位にあるような態度をとる。日本の「あるべき位置」をそう思い込んでいるからです。現在、ネトウヨが発信する嫌韓・嫌中的な妄言は、八紘一宇の意識がそのまま続いていることを表し、一方、日本政府の対米隷属は、世界の階層のなかで日本はアメリカの下にある、ということを示しています。
 今後も『菊と刀』は読み直すことになるだろうし、関連本も読まねばならないと思います。いま、自分が考えるべきテーマは日本人の階層意識です。

菊と刀 (講談社学術文庫)

菊と刀 (講談社学術文庫)

 
菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

 

 

本『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』

 最近読んだ本、第2弾は、『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』。
『久米宏のラジオなんですけど』に、訳者の鈴木賢志さんがゲスト出演して興味を持ちました。
 いやはや、すごい内容です。
 日本の教科書ならば、憲法や法律について書かれていたら、「法律は守るものです」なんてことが書かれるのでしょう。テストでは「国民の三大義務とは何か?」なんて聞かれるのです。
 しかし、スウェーデンの教科書は違います。
 終始、法律、規則、規範は変えられるのだ、と書かれています。
 たとえぱ学校が髪型や服装に決まりをつくっていて、それを不当な人権侵害だと感じたとする。そしたら反抗して変えさせちゃえ。
「髪型やファッションを変えて規範を打ち破ってやろうとするなら、それを何度も繰り返しているうちに、それでいいのではないかと思われるようになるかもしれません」(第1章「社会」)。
 日本じゃ、子供が大人に反抗するなんて考えられませんが、あちらの国では、子供の人格も1人の社会人として尊重されているのです。
 第2章は「メディア」。
 スウェーデンは進んでるからメディアリテラシーを教えているんだろう、と予想しましたが(それについても言及されますが)、もっとレベルの高いことから始まっていました。FacebookやTwitterを通じて発信者になることの重要性です。
 びっくり仰天。対象年齢は日本の小学校高学年ですよ。
 あなた自身も社会に影響を与えることができるのだ、とスウェーデンの教科書には書かれています。そして、あなたが世論を形成してオピニオンリーダーになる方法は、新聞への投書、SNSの活用、人を集めてデモをすること、政治家に直接訴えることなど、とあるのです。
 スウェーデンの教科書にいちいち感動した私は、第5章「政治」で語られる、なぜ勉強しなきゃいけないかという一文に打ちのめされます。
《(略)学校の職員や両親、近所の人々、コーチ、そして最終的に政治家を味方につけるためには、誤字などの誤りがなく、正しく書くことが重要となります。あなたが、しっかりと準備が整っており、ちゃんとした文章が書け、そして自分の意見を冷静にしっかりと伝えることができるということを示しましょう》
 参りました。
「同性愛者のお父さんに育てられている子供もいます」なんて記述もあります。「隠れた広告」に注意しよう、などともあります。多様性を認め、徹底的に民主制であり、子供の人格を認めているのです。
 子供のころからこういう教育を受けているから、スウェーデンの政治に対する意識は高く、十代半ばからどこかに入党したりするし、投票率も高いのだそうです。日本の家庭では、親子同士でもどこに投票したか内緒にしたりするといいますね。
        ★
 民主主義国家を標榜するからには、それを理解しようとしなきゃいけない。しかし日本の国民は自分たちが主権者であることを自認せず、自民党・公明党の大半は立憲主義さえ理解できない。
 入って来た宗教が土着の信仰と結びついて変容する例は世界中にあります。同じことで、日本では輸入された概念・民主主義と近世から続く上意下達の階層意識が渾然として、「一見民主主義風ただの階層社会」になっているのです。自称保守の連中は、男性中心のカースト社会がお好きなようですが、それと民主主義は本来相容れないのだから、戦前回帰なんていうのは改革と同じなのです。自称保守なのに改革とはこれいかに?
 スウェーデンの教科書は、若者のデモを見て「子供のくせにえらそうなこと言うな、おめえら就職がなくなるぞ、キーッ」と言っていた日本の大人や、黒人・LGBT・事実婚・沖縄その他マイノリティを差別する政治家が読むべき本です。

スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのか

スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのか

  • 作者: ヨーランスバネリッド,G¨oran Svanelid,鈴木賢志,明治大学国際日本学部鈴木ゼミ
  • 出版社/メーカー: 新評論
  • 発売日: 2016/12/09
  • メディア: 単行本
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本『棋士という人生』

 最近読んだ本から。
 大崎善生編『棋士という人生』についてメモ。
 私は連盟の道場でアマ四段程度の腕前です。ただ、クラブ活動で将棋をきちんとやったのは中2〜高1の三年間くらい。高校1年のときに団体戦で全国大会に出ましたが、それっきり熱心に指さなくなりました。
 この本には、私が中学時代に全盛期であった中原、米長、まだタイトルに挑戦していた大山、内藤、加藤一二三らの名前が出てきます。山田道美は故人でした。
 編者の大崎氏は「将棋世界」編集長をつとめ、ご存じのとおり、村山聖の生涯を書いた『聖の青春』で作家デビューします。ちなみに私は広島だったので、村山聖(故人)とも指したことがあります。彼が奨励会に入る直前のこと。もちろんふっとばされましたが。
 この本にも、夭逝した村山や挫折した奨励会員を書いてきた大崎氏の「好み」が見える気がします。具体的にいえば、将棋に命を賭けた棋士の話が多いという印象です。
 高柳敏夫が弟子・芹沢博文について書いた文章が痛々しい。強かったのに酒に溺れて将棋に対する情熱を失い、テレビタレントとして活躍しつつ、エッセイなどで他の棋士の怒りを買ったまま肝不全で死んでしまった芹沢の心境を高柳が代弁しています。(「芹澤博文の死」)
 全体に面白かったけど、アンソロジーとしてはややまとまりに欠いた印象もあります。小林秀雄と村上春樹のエッセイが浮いていたりする。もっとも浮いているのは「編者あとがき」ですけどね。これは読まないほうがよかった。

棋士という人生: 傑作将棋アンソロジー (新潮文庫)

棋士という人生: 傑作将棋アンソロジー (新潮文庫)

 

本『炭素文明論』

 ひさびさに更新してみます。
 
 佐藤健太郎『炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす』は、サイエンスライターの著者が《化学に対する関心の低さを、少しでも改善したい》と願って書かれた本だそうです。地表における炭素の存在比は、質量にしてわずか〇・〇八パーセントに過ぎない一方で、炭素をふくむ天然もしくは人工の化合物は全体の八割を占めるのだそうです。もちろん人体にも炭素はおおく含まれます。
 本書で扱われる炭素化合物は、デンプン、砂糖、グルタミン酸などの食品、ニコチン、カフェイン、エタノールなどの嗜好品、ニトロや石炭、石油などのエネルギーです。たしかにそれらは人間の人口増加を支え、文明を作ってきました。世界全体を巻き込んだ貿易や争奪戦が始まり、戦争さえ引き起こし、格差を生み出しています。
 とくに興味深かったのは、未来のエネルギーのこと。
 福島の原発事故により、再生可能エネルギーに注目が集まっているけれど、《残念ながら、どうひいき目に見ても、今のところこれらは原子力の穴を埋めるエネルギー源にはなりえない。風力や太陽エネルギー源は、あまりにエネルギー密度が低すぎるためだ》そうです。
 原子力に頼らないためには石油やシェールガスなどに依存する必要があります。しかし《資源ナショナリズムの問題》があり、国家間のいざこざが起きやすい。
 そんななか注目されているのが「人工光合成」なのだそうです。空気中の二酸化炭素を炭素に還元する技術を獲得することが21世紀のエネルギー確保の課題であり、それが地球温暖化対策にもなるというのです。
 私は「化け学」が不人気だから専攻しなかったのではなく、科学全般不得意だからやらなかったクチですが、「人工光合成」は多いに気になります。
      ★
 蛇足。
 糖質制限派の私は、この部分が気になりました。
《人類も、おそらく誕生当初から穀物を口にし、命をつないできた。ハーバード大の研究チームによれば、一九〇年前に生きていたホモ・エレクトゥスが、初めて火を使った加熱調理を行なったと見られる。デンプンは、水を加えて加熱することにより、グルコースの間に水分子が入り込んで膨張する(糊化)。炊いた米、ふかした芋はこの状態だ。こうなると、デンプンの腐りがゆるんでいるので消化分解を受けやすくなる(略)/これと同じ時期、人類の脳の容積は急拡大している。火を使った調理によって十分な炭水化物を摂れるようになったことで、脳の発達が促されたと見られている。その代わり、人類は糊化していないデンプンを消化する能力を失ってしまった。多くのサルはドングリなどを生のまま食べて消化するが、人間だと腹をこわしてしまう。人間は体内で行うべき消化の機能を、火に「外部委託」してしまうことで、カロリーと時間、そして高い知能を手に入れたと見ることもできよう》(39ページ、太字は引用者)
 はて、もともとの人間は、火を使う前に生の穀物や木の実を食べ、消化することができたのでしょうか?
 これは今後の課題といたします。

炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす (新潮選書)

炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす (新潮選書)

 

 

映画『ゴジラ』(1954)

ゴジラ(昭和29年度作品)【60周年記念版】 [Blu-ray]

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『ゴジラ』第一作(1954、東宝、本多猪四郎監督)をCATVでやっていたので、録画して見直しました。出演は、宝田明、河内桃子、平田昭彦、志村喬、堺左千夫ら。
 海底に生息していた古代生物が水爆実験の影響により地上に出現し、東京を焼き尽くします。
 作品で地上を守るのは「防衛隊」でしたが、警察予備隊が保安隊を経て自衛隊に編成されたのは、映画が公開された昭和29年。朝鮮戦争は休戦しましたが、米ソのにらみ合いが続き、世界情勢は安定しません。日本には第二次大戦の記憶が色濃く残っています。映画では(引用不正確ですが)、電車に乗っていた女性が「せっかく長崎の原爆を運良く逃れたのに」とぼやいたり、銀座でゴジラに襲来された母親が子供を抱いて「もうすぐおとうちゃんのところに行けるよ」と叫んだりします。ゴジラが通り過ぎた東京をみた当時の観客は東京大空襲を想起したでしょう。病院はベッドが足りず、野戦病院のようです。
『ゴジラ』にあって『シン・ゴジラ』にない大きなものは庶民の切実な悲哀です。後者のゴジラは、一見、福島第一原発のメタファーとして出現するものの、「人間の技術が生み出した怪獣」という意味づけは稀薄で、原発に近い町から避難せざるをえなかった人たちの悲しみはまったく反映されません。
『ゴジラ』では大量破壊兵器を造ってしまう科学者の葛藤が描かれ、命に代えて怪獣を殺そうとします。『シン・ゴジラ』は知恵と勇敢な行動力で(スケールは大きいけど)害獣を駆除します。ある意味、政府と科学と自衛隊の広報になるような映画ですが、一方、莫大な時間と人材と費用をかけても収束できない原発事故のほうがゴジラより怖いという事実が際立ち、私はゲンナリしました。
 東京を徹底的に焼尽するという点では『シン・ゴジラ』も引けをとりません。しかし現像のよくないモノクロ映画のほうに迫力を感じるのはなぜでしょうか。人々が焼かれる映像がはさまれることで、絶望感が生じるからか、あるいはモノクロのほうが想像力が働くのか……(青空の下のゴジラってなんか変だよね)。
 ともかく、あらためて『ゴジラ』は良いパニック映画だと感じました。意味不明なところもあります(たとえば山根博士はなぜゴジラが光を嫌うと言ったのか?)が、それを考慮しても悪くない作品です。
      ☆
 以下、今回気づいたこと。
 志村喬演じる山根博士が大戸島の坂道を駈け上がるシーン、思ったよりも機敏で、一瞬、『七人の侍』の勘兵衞とダブります。それもそのはず、『七人の侍』も同じ昭和29年公開なのでした。
 志村は当時49歳。山根博士は老人というイメージでしたが、妙齢の娘がいることから実年齢はほぼ同じなのかもしれません。ちなみに、志村が定年(当時は55歳かな)間際の役人を演じた『生きる』はその2年前でした。むかしの人の年はわからん。
 ちなみにキネ旬ベストテンを見ると、1位と2位を木下恵介監督の松竹映画『二十四の瞳』『女の園』が占め、『七人の侍』は3位。『ゴジラ』は無得点です。興行収入も『七人の侍』が3位で『ゴジラ』は8位。トップは『君の名は・第三部』でした。
 評価も興行収入も、松竹が東宝を抑えていたんですね。

映画『喝采』

 妻が録画していた『喝采』(1954米、The Country Girl)を観ました。
 息子を事故で失ったことで挫折し、酒に溺れる舞台俳優フランク(ビング・クロスビー)。彼を復帰させたいクック(ウイリアム・ホールデン)は、フランクの妻ジョージー(グレイス・ケリー)と衝突しながら公演の準備をすすめる、という物語。
 原題からしても彼女が主人公なんですね。屈折した夫の面倒を見るグレイス・ケリーが非常に難しい役を演じています。ただのスター映画ではないな、と感心して観ていました。ただ、いつも反目していたクックとジョージーが突然チューしてからは、緊張感がなくなりましたけどね。「女として見られたことがうれしい」なんて、ちょっと陳腐じゃないかなあ。ずっと地味だったグレイス・ケリーが、最後、ばっちりメイクしていて、ハッとさせられます。
 映画は「まあまあ」でしたが、グレイス・ケリーは大好きです。

喝采 [DVD]

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映画『この世界の片隅に』

こうの史代の原作も読んでいますが、あえて読み返さず、映画を観ました。1週間くらい前の話です。

広島市の江波(えば)で育ち、呉市に嫁いだ女性すずの物語です。絵が得意で夢見がちで、現実と夢の境が曖昧な少女でした。

原作コミックの良さをそのまま残しつつ、街並みや動植物を丁寧に描くアニメでした。戦時下の風俗が丹念に再現された、大袈裟にいえぱ民俗学的な要素もあります。広島県出身者から見ると、たいてい映画やテレビの広島弁はむちゃくちゃなんですが、この映画の声優陣に関してはほとんど違和感がなかった。そのことからも、いかに丁寧につくられたかがわかります。
呉は軍港でありました。いまでも造船の街です。
呉に嫁いだ主人公すずは、おおむね好人物だけがいるコミュニティで、一見のんびりした日々の生活を送ります。夢見がちで明るい性格の彼女を通してみると、戦争をふくめての、日常なのです。ところが、そこに予期せぬ不条理が襲いかかり、彼女にヒリヒリとした現実を突きつけます。
主人公の声を演じたのん(能年玲奈)は作品をよく理解していました。素人くさささえ魅力になっていて、これは彼女の映画といってもいいかもしれません。彼女の独立問題によりテレビで映画のプロモーションができなかったという噂も聞きましたが、いまどき映画なんて口コミでヒットするんでしょうから問題ありません。私は基本的にテレビを観ませんしね(じつは『あまちゃん』も知らないのです)。
最近、大東亜戦争の知識がない若い子がいると聞きます。電車のなかで、8月6日がなんの日か知らない若者の会話を聞いたことがあったっけ。アメリカと日本が戦争をしたことを知らない若者がいるとも仄聞します。そういう若者が見たら、どの国が呉を攻撃するのかわからないはず。それほど政治的な背景は省略されます。もし「銃後の暮らしも案外たのしかったんだな」とか「この映画、反戦のメッセージがなかったな」なんて思うなら、決定的に鑑賞力がないのでしょうが。
前述のとおり、ぼんやりした性格の主人公のフィルターを通すことで、軍国主義的風潮も捨象されています。だからこそなんでもない日常を破壊する戦争の不条理さが際立つともいえます。

原作を読んでストーリーは知っていましたから、いきなり映画だけ観た人よりショックは少ないはずです。それでも気持ちが重くなり、1日ぼけーっとしてしまい、とりあえず映画館から帰って1時間ほど寝ました。^^
私が小学生のときに死んだ母方の祖父は、戦時中、呉の造船所で働いていました。晩年は長男とともに自宅で漁船を作っていました。あの映画の世界にいたんだろうか、なんて考えています。

         ☆

原爆をあつかった映画は『はだしのゲン』も『黒い雨』ももっと衝撃的でした。『この世界の片隅に』は、その点、かなりマイルドです。
でも、『この世界の片隅に』も戦時下の一面なのです。原爆投下から70年以上経って、やっとこういう切り口で原爆を語れるようになったとも言えますし、そのためヒットしているとも言えます。今村昌平『黒い雨』の公開初日、私は当時の習慣で、最前列の真ん中に座りましたが、客は私だけでした。怖かった。
個人的には、遊廓跡に興味があり、中国地方最大規模の呉の遊廓にスポットを当てたことも評価します。あれも遊廓の一面でしょうけど。

映画『シン・ゴジラ』(ネタバレ?)

 映画を観ても本を読んでもブログを更新していなかった。
 これを期に少しアップするようにします。

        ☆

 私はこどものころゴジラは好きでした。広島に住んでいたから実物を見たことはなかったけど、東京タワーや大阪城が壊されることにワクワクしました。
 しかし小学生向け雑誌で、過去にゴジラが「シェー」をしたと知り、夢から醒めました。自分だって子供のくせに、ゴジラは子供だましだとバカにしてしまったのです。
 今は、テレビでやっていれば、第一作『ゴジラ』などは観ます。子供向け娯楽映画ではない傑作です。モノクロだからいいのかもしれません。夜の暗がりにゴジラの目と、放射能の光線だけが光るシーンは美しい。

 さて、そんな私が映画『シン・ゴジラ』を見ました。
 SNSを見ると、友人や友人の友人が、2度見た3度見た、とありますから、それなりに期待したのでした。ラジオ等で「ネタバレにならない程度に」という前置きで聞いていた情報は、福島原発事故のあたふたした対応を描いたものだとか、日米安保体制を皮肉ったものだとかいうもの。「ゴジラを《駆除》するために原爆を投下するといったアメリカに、日本は追い詰められる」という話も聞いていました。
 それらを聞いて、勝手にストーリーを妄想していたんですね。
 最初に結論を書けば「期待ほどではなかった。まあまあくらいかなあ」というのが率直な印象です。

  (以下ネタバレふくむかも。注意。)

 自分で勝手に膨らませた期待を、映画は越えてくれなかったのでした。映像はそれなりによかったと思います。しかし20年前ならともかく、いまどきCG観て驚くようなこともないし……。私の場合、巷間漏れ聞く「セリフが多い」「人間ドラマがない」という、よく聞く批判はしません。そんな映画もあっていいからです。
『シン・ゴジラ』の前半は、自衛隊出動にいたるまでの法解釈や、日本がアメリカに隷属していることを描いた点で新しいのでしょう。おもしろかった。ただ、海外の人が見たら確かにつまらんかもね。
 しかし、現実を見据えた前半のパロディは、その後、「こうだったらいいのにね」という理想を描くファンタジーになります。
 だから左の人たちは前半を見て反権力の映画だと評し、右な人たちは後半を見て日本礼賛の映画だというかもしれません(映画のなかで、日本はほとんどアメポチですけど、いまの自称保守はアメリカ従属を是とするからいいんでしょう)。
 私はもしかして徹底的に日本が破壊されるのを期待していたのかもなあ。『日本沈没』並みに。

 日本に襲来したのが宇宙人ではなくゴジラである意味はなんでしょう。 
 ゴジラは可視化された放射能です。つまり福島原発を想起させます。
 前述のとおり、前半は福島の原発による政府の対応をカリカチュアライズしています。やたらと「想定外」を発する大臣がいました。
 誰かが指摘していますが、終戦の決断から玉音放送にいたるシリアス劇にコメディの要素を加えた、岡本喜八『日本のいちばん長い日』にも通じているといえましょう。マスコミや国民の視点をほとんど省略している点も共通しています。もっとも『日本のいちばん長い日』の場合、あの日、大本営発表しか報じないマスコミや、敗戦の噂さえ耳にしてなかった庶民を描く必要性は低かったといえますけど。
 2度目の上陸で東京は壊滅的な被害を負います。上陸した地点は異なりますが、結局最初と同じようなコースをたどる理由がわかりません。馴染みのある場所が破壊されている点は、私にとっては面白かった。
 ただ、人間を脅かす存在であるゴジラを生みだしたのは誰なのか? なぜ日本を襲撃したか? 国家とは何か?……といったことまで考えさせる深い映画ではなかった。前述のとおり、後半は、進化した害獣を知恵と勇気で駆除するお話になるからです。
 制御不能な放射能=ゴジラに対し、知恵と勇気で立ち向かう勇敢な日本人。縦割り行政とか責任をとりたくない政治家たちとか外交能力のない大臣たちといった、合うはずのない歯車がカチカチはまって機能し始めます。

 映画を観て、政府と日本が世界の科学者と力を合わせれば、あるいは日米が合同で力をあわせれば、どんな艱難も解決できるという前向きなメッセージを受け取る人は幸せなのかもしれません。日本人は万能ですって。
 でも正直、私は、滅入ってしまった。いまの日本は地球を汚染し続けるメルトスルーという現実的な問題を抱えているのです。誰かはアンダーコントロールとウソついたけどね。福島の原発事故に比べれば、ゴジラは与しやすいのだと再認識してしまった。偉い人たち、どうか叡智をもって原発を制御してください。

 一般論として、創作物は(作者のテーマなどと無関係に)ロールシャッハテストみたいなものだから、個々の感想は自由です。右も左も武器オタクも庵野オタクもゴジラファンも自分なりの解釈と発見をしてたのしめばいい。私はがっかりした大団円で、カタルシスを得たひともたくさんいる。
 つまり、あれです。テレビで「日本人ってこんなにすごいんです」という番組や本がたくさんありますよね。あれは何かのプロパガンダですか? 私は自画自賛が気持ち悪いんですが、みんなが好きで視聴率が高いからどんどん増えるのでしょう。『シン・ゴジラ』は日本礼賛映画、つまり国策映画に見えて警戒してしまいます。そういや、「アンダーコントロール」と言った人も、なにかの会合で『シン・ゴジラ』に言及し、自衛官募集のポスターにもゴジラが登場していたそうですね。

 以下は、雑感。
◎この映画、皇居の話題は避けていました。
◎上記のとおり、ゴジラは夜がよく似合う。真っ昼間、電池切れして突っ立っているゴジラはどんなもんじゃろ?
◎最初出てきたとき、ゴジラは姿形が違います。初登場が第一か第二形態で、完成した姿は第四形態でしたっけ。ゴジラの幼少期はミニラだろ〜、と私は心のなかで叫んでいましたわ。
◎『忠臣蔵』と同時に進行するスピンオフ(?)が『四谷怪談』です。同じように、日本でゴジラ退治のため知恵と勇気をふるう『シン・ゴジラ』と、日本のゴジラを◎◎で撃退するべく必死に任務を遂行する『博士の異常な愛情』が同時進行していたら……と妄想したら、こりゃすごい映画だな。

本『「靖国神社」問答』

30年くらい前の話。
友人と喫茶店で靖国問題について雑談していると、総理大臣による靖国神社公式参拝に賛成するやつがいました。リベラルな考えの持ち主でしたが、「日本のために命を落とした英霊に、首相が頭を下げるのはいいことだと思う。靖国参拝に反対する人の気持ちがわからない」と力説するのです。ずっと聞いたあと、「憲法違反でも、そう思うか」と言うと、彼は「ん〜」と考え込んでしまいました。
立憲主義が揺らいでいるかもしれないと思ったのはこのときが初めてです。純粋に善意の気持ちからかもしれないけど、一般の国民が憲法をないがしろにするようになっていたのです。解釈改憲などというイカサマがまかりとおるのもむべなるかな。

      ◎

山中恒『「靖国神社」問答』(小学館文庫)を読みました。
政治や外交としての靖国問題に関しては以前もよく読みました。神社としての靖国に関しては、小松和彦『神になった人びと』(知恵の森文庫)で読みました。戦争のあと、祟りを怖れて、相手も一緒に祀ってきた日本ですが、靖国は戦勝国側だけの戦没者を祀る歴史的には型破りな神社であることや、戦没者はみな合わさって一つの柱になっているため、分祀できないことなどを学びました。靖国神社は明治2年の建立です。
山中恒が書いた『「靖国神社」問答』は、いろんな角度から総合的に靖国神社を学べる1冊でした。日本の近現代史の一側面が理解できるので中高生に読んでほしい。
明治以降、現人神=天皇と神道が日本の中心に位置づけられます。戦前・戦中の子供は大日本帝国や天皇に敵対する相手と戦うことは神の意思にかなった正義であると教え込まれ、殉国の士を靖国の神にすることで誰も戦争に反対できなくなるようにしたのだ、と著者は書きます。つまり靖国神社は国家的な戦争の装置なのです。
八紘一宇の精神でアジアに勢力を伸ばそうとした、明治以降の日本の歴史を丁寧に振り返りながら、靖国神社の果たした役割を俯瞰しています。白井聡の解説も良かった。

      ◎

今年の正月、神社が憲法改正の書名を集めていたと報じられ、ドキッとしました。いまの保守は、社会を戦前に戻したいと言われます。戦後、政教分離を徹底され格下げされた神社も、憲法改正をして国家神道に戻りたいんでしょう。私は靖国は以前から敬遠していますが、神社一般とも距離を置くことにしました。どうしても神様が欲しくなったら、拾ってきた石を飾り、神様として崇拝することにします。

「靖国神社」問答 (小学館文庫)

「靖国神社」問答 (小学館文庫)

 
神になった人びと (知恵の森文庫)

神になった人びと (知恵の森文庫)

 

 

本『被差別の食卓』

今年はこのブログをきちんと更新していきたいと思っています。

      ◎

「お好み焼きは広島県民のソウルフードだ」みたいな言い方をよく聞きますが、もともとソウルフードとはアメリカのアフリカ系アメリカ人の食文化なのです。ソウルミュージックと同じですね。フライドチキンやキャットフィッシュ(なまず)が黒人たちのソウルフードでした。

上原善広『被差別の食卓』(新潮新書)を読みました。著者は、差別されてきた人たちの食事をさぐるために世界を旅します。本来の意味でのソウルフードを訪ねるのです。アメリカとブラジルの黒人奴隷に端を発する料理、ブルガリアとイラクのロマ(いわゆるジプシー)の食事、ネパールの不可触民の食事……。最終章は、著者が生まれ育ったむら(=日本の被差別部落)の食事が取り上げられます。彼らはみな、差別する側が食べないものを揚げたり干したりして工夫し、独自の食文化をつちかってきたのです。

日本でも、食肉・皮革に従事する人が差別された歴史があります。同様に、ネパールでは、牛の解体をおこなう人々は穢れていると差別されています。《この"浄・穢"の考え方は中国、朝鮮を経由して日本にも伝播し、被差別部落を形成する思想の元になったと考えられている》というのは初めて知りました。

著者は何らかの主張を声高に叫ぶわけではありません。非常にフラットな視点で、ただ単にスケッチしたような書き方がとても良かった。この著者の本は、引き続き読んでいきます。

被差別の食卓 (新潮新書)

被差別の食卓 (新潮新書)

 

本『永続敗戦論』

政治のことなど考えないで生きていたいのですが、そうもいかない。みなさんご存じのように、現政権が押し通そうとしている安保法制に関する議論は、まったく意見が嚙み合わずコミュニケーション不全に陥っています。詭弁とはぐらかしに満ちていて体系というものができていない。これは「言葉を守るかどうか」あるいは「正しい手続きを踏むかどうか」の戦いなのです。

高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)は、朝日新聞に載った論壇評をまとめた一冊。連載をまとめたものだからテーマが散らばっていている印象は否めませんが、冷静でバランスのとれた本でした。非論理的で、非インタラクティブで、饒舌だけど意味のふくまれない言葉で騙されないためには、私たちが冷静で論理的でいるしかありません。

その本に触れられていたか記憶しませんが、続いて白井聡『永続敗戦論』を読みました。著者は1977年生まれの社会学者らしい。

むかしから指摘されていることですが、日本は「敗戦記念日」を「終戦記念日」と言っています。戦争できるようになる法案なのに「平和法案」といい、武器を輸出できる原則を「防衛装備移転三原則」と呼ぶのと同じく、なんらかの意図があるわけです。

白井氏はその言い換えをこんなふうに説明します。

日本はポツダム宣言を受諾し、サンフランシスコ講和条約を締結することで敗戦を受け容れたはずの日本の権力中枢は、じつは敗戦を否定している。アジア諸国に対しては、たんに戦争が終わっただけかのように振る舞う。日本の歴史認識は昔から変わりがなく、ポツダム宣言も新憲法も内心否定している。しかし事実日本は敗戦したのであるから、日本はそうした態度を見せかけるためにもアメリカに従属せざるをえないのである。《(略)敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は「永続敗戦」と呼ぶ》(48p.)

本書はこの考えを基本にして、領土問題、アメリカやアジアとの関係、天皇問題、戦争責任、靖國問題、さらに日本が何をすべきか……などを論じています。非常に鋭い指摘です。2013年3月に刊行された本ですが、2年以上経って歴史修正主義の擡頭がいちじるしくなり、著者の主張がますます具体的になってきました。

先日、山本太郎議員が、すこしまえに志位和夫議員が、それぞれ国会において日本の対米追従について質問しました。安保法制がアメリカの要請によるものではないか、との指摘を、首相や防衛相は完全に否定できなかった、と私には見えました。

私は改憲やむなし派です。けれど、いまの解釈改憲に与することはできません。互いに理解できる言葉と論理とで話しあう社会をつくるために、無力感と戦いながら頭をフル回転させなければならない。もう少し勉強します。

永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04)

永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04)

 
ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

 

映画『瘋癲老人日記』

いやはや、このブログの存在自体忘れていました。本は読んでます。映画はあんまり観てませんが……。

本日、新宿の角川シネマにて『瘋癲老人日記』を見て参りました。初見です。「若尾文子 映画祭 青春」という企画で上映される作品のひとつです。世界に誇る、大官能・マゾヒズム芸術作品です。どうぞ原作もお読みください。

『瘋癲老人日記』1962年大映
 監督/木村恵吾 原作/谷崎潤一郎
 出演/山村聰、東山千栄子、川崎敬三、若尾文子、村田知栄子、丹阿弥谷津子

じつは私、文子サマのファンなんです。まさに「しとやかな獣」──気品のある役から途轍もない悪女までこなせる、名女優です。それぞれの作品につきましては、また語る機会もありましょう。

さて、『瘋癲老人日記』です。原作では、喜寿を迎えた卯木督助が息子の妻の脚に魅入られ、シャワーを浴びている彼女の脚に頰ずりしたり踏まれたりして興奮を覚えるというプレーを愉しみます。それは血圧の上昇を招く、命を賭けた危険な遊びでもありました。嫁・颯子はそれをどう思っているのか、督助におねだりして高価な猫目石を買ってもらったりしているのです。死期が近づいた督助は、自分の墓石にあるものを刻もうと、颯子に懇願します……と、これらが漢字片仮名まじりの日記として語られていきます。最後、看護婦の手記が添えられ、少々、事実が混乱するのです。そのあたり、ミステリー風な小説を多く書いている谷崎の真骨頂ともいえます。

これを映画にするのは難しいでしょう。日記が客観性を欠くから成立するお話なのです。映像にしてしまえば、虚実入り交じった妄想部分も事実として語られます。

コミカルにすることで、おそらく別の味わいを狙ったものと思われます。最初から、谷崎の『台所太平記』を参考にしたようなドタバタです。シャワーを浴びている颯子の脚にすり寄るシーンなんかも、観客の笑いを誘っていました。しかし、ずっとコメディタッチであるところに、最後の墓石のシークエンスに移ったとたん、狂気を映したいのか官能的にしたいのかよくわからない微妙な雰囲気になってしまい、全体がちぐはぐな印象になってしまうのです。期待してはいなかったけど、最後は残念でした。(脚本にひとこと申すなら、主人公はとくに「脚」に拘泥しなきゃならなかった。谷崎のフットフェティシズムは有名ですが、映画では、脚も首も舐めたい、キスしたいと言うから、脚への執着が際立ちません)

若尾文子サマは、決してスタイルはよくないんですが、よくまあ、素肌をさらしていらっしゃいました。山村聡はすかしすぎてて督助を演じられないんじゃないかと思っていたんですが、私の先入観でありました。その十二分な瘋癲ぶりに感心しました。

誤解されると困るのですが、原作は、谷崎先生晩年の大傑作です。大学生のとき論文を書かされたため詳しく何度も読みました。原作の偉大さについて語りたいところですが、まあ、それも機会があれば、いつかまた。

瘋癲老人日記 [DVD]

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鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)

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