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内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』にみるニセ保守

 ひとこと、この本に触れたいのです。
 
 人命救助のため土俵にあがった女性に対して「土俵から降りてください」といった例の事件に腹が立ち、本棚から探り当てました。
 私は相撲ファンでした。相撲の歴史、好きな力士の応援、八百長の噂をふくめて全部好きだったのです。神話の時代の話から最近のスキャンダルまで網羅的に読んでいたので、今でも相撲関連の書籍がごっそり並んでいます。相撲ファンを辞めたのは、確実に存在していた互助会的八百長を報じた週刊誌を日本相撲協会が訴え、勝訴が下ったときです。野球賭博から派生して組織的八百長が発覚したのは、さらに数年後でした。

         ☆

 内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』は2006年刊行。おそらく当時読んだのでしょう。東北大学の修士論文をベースに書かれたそうです。私の知らないこともよく調べていて、その点には感心します。土俵とは結界であり、不浄とされる女性は伝統的に立ち入ることができない。結論から書けば、内館牧子は保守派として、その伝統を守りたいとおっしゃるのです。

 太古の人間が「女性の月経を畏怖し敬いつつ穢れとも見た」というのは世界共通の認識です。日本では、仏教伝来により五障三従や女人不成仏が影響して女性は不浄だという考えが定着したなどと言われます。
 大相撲は、それを理由にいまだに女人禁制なのです。
 たしかに相撲に神事という側面があったかもしれませんが、かつては異形の人たちが演じる見世物・興行でもありました。プロレス興行と同じようなものだったんでしょう。団体はたくさん存在したでしょうし、女子プロレスみたいな女相撲の興行もありました。女相撲は戦後まで続いていたのです。いまもちびっこ相撲で女の子が取り組みをしますし、スポーツ競技としての女子相撲世界選手権があります。女子相撲のアイドル野崎舞夏星選手は立命館大学で男と稽古してたよ。
 ところが、内館氏は相撲の一側面を切り捨てて無視するのです。《なお、ここでは「女相撲」は取りあげない。「女相撲」については多くの研究者がおり、論文や文献も多いが、私は女子だけで取る相撲は別のジャンルであると考える。》(196p.)
 庶民文化としての相撲・歴史としての相撲は、大相撲だけでなく女相撲もちびっこ相撲もすべて論じなきゃならないのに、
なぜ大相撲しか考えないのか……?
 
 明治以降の大相撲は、国技を自称することを思いつき、権威づくりのために国家神道と結びつき、さまざまな伝統やしきたりを後づけでこしらえました。
 内館氏もちゃんと書いています。

  実は「相撲は国技」「伝統の国技大相撲」という言葉にだまされてしまうが、相撲が「国技」になったのは一九〇九年(明治四十二年)のことである。
 追って詳述するが、大相撲における女人禁制は、一六九九年の土俵成立から、国技になった一九〇九年あたりに固まったようだと私は考えている。そして職業相撲集団にとって、男尊女卑がまかり通っていた時代は問題ない。しかし、明治に入ってそれが通用しにくくなると、聖性や宗教性など故実の後づけをして、「伝統を創る」という方向にもっていったように思う。
 また、この間に限らず、相撲はいつでもその時代の権力者と密接に結びついていた。天皇、貴族、武将、軍人など権力と手を携えながら、伝統を創った。すると創った伝統が古来からのものであるかのように周囲が勝手に思ってしまう。このあたりのテクニックには驚かされるし、あきれるほど鮮やかでもある。(59p.)

 土俵ができた年は1699年とわかっているんだっけ?……はともかく。
 聖性や宗教性など故実の後づけをされた「創られた伝統」だと冒頭に書いておきながら、内館氏はその伝統をありがたがる。そして、繰り返し、男女平等や男女共同参画を持ち出して「土俵に女をあげろ」と主張する人たちを攻撃します。
 は?
 私も相撲の女人禁制を疑問視していますが、「男女平等」「男女共同参画」とは関係ありません。大相撲なんて、あとづけの伝統だらけですし、いくつもルールを変更している。四本柱を取っ払ったり、文字通り立ち合って始めた相撲の立ちあいを四つんばいに変更したり、カラーテレビ向けにまわしをカラーにしたり……。女人禁制だけ固執するのはナゼ? と感じるのです。「女は不浄」だなんて考える人、もういないでしょ……いや、少しはいるのか。
 人命救助のため土俵に上がった女性までを外に出そうとした大相撲、もはや宗教です。なんとか教の信者が輸血を拒んだ話を思い出します。教義が人命を上回る。
宗教法人にしたほうがよい。
 
 もうひとつ。
 ある意味、これが一番重要なのですが。
 保守を自称する内館氏と、男女平等や男女共同参画を持ち出して「土俵に女をあげろ」と主張する人たちは理解しあえるのでしょうか?
 内館氏は《いかなる努力をしてもお互いに理解しあえない》(260p.)と書きます。はて、保守とは人と対話できない人でしたかな。
 保守の父エドマンド・バーグは、「人は間違いやすいものであるから、時間をかけて対話し、漸進的に社会を改良していく」と規定しているはずです。
 2006年に書かれた内館氏の《いかなる努力をしてもお互いに理解しあえない》は、安倍晋三という戦後最低の総理大臣が言い放った「こんな人たち」や「対話より圧力」発言、小池百合子による「排除」発言同様、社会を分断し、気に入らない者を切り捨てる考え方です。
 保守を自称する輩が明治あたりの伝統をありがたがって復古主義を謳い、異を唱える人間とは話しあうことなく排除する。たかが相撲の話から見えてくるのは、ニセ保守が跋扈するひどい世の中です。

女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)

女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)